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とある20代女性は『天使の街』をこう読んだ

今回は、『天使の街』の読者から届いた感想文をご紹介します……といっても、じつは実際に購入した方ではなく、「小説を書いたのでよかったら読んでください」と献本用ファイルをお渡しした方から送っていただいたものです。その意味で半分は“やらせ”であります。しかし、実際に読んでいただくこと、まして感想を頂戴することは期待していませんでした。だからこそ率直に作品の魅力を語っていただいていると思います。ご参考までにぜひご覧ください。

「少女たちの叫び」

★少女たちの涙を拭う〈ゆーとぴあ〉

「愛する人はひとりだけってだれが決めたの?」

物語を通じて問いかけられる言葉だ。

愛する人はひとり。一部の文化をのぞいて、人は基本的にひとりの相手と結ばれるようにできている。この考えに、私たちは運命の相手を夢見るが、それによって悩み、苦しむこともある。だれかひとりを選ぶということは、選ばれなかったものは夢が壊れる。だれかが幸せになれば、また別のだれかが涙を流すということもある。

その涙を拭ってくれるのがゆーとぴあであり、登場する少女たちがときに憧れ、ときに反発する世界である。

主人公のマヨも、ひとりの相手と結ばれるのが幸せと考えていた。学生だったマヨが心奪われたナツミも、同じように考えていた。しかしナツミも、社会人となったマヨが愛したマヒルもテンシとなりゆーとぴあへ去ってしまう。疲れきったマヨは、かつてでもんずの一員として対峙していたテンシのいるゆーとぴあを目指すようになる。

私の印象に残ったのは大人になったマヨと若いハルカの対比だった。立て続けに愛する人を失ったマヨは、なかば投げやりにゆーとぴあでの快楽、哀しみのない生活に魅かれるようになる。いっぽうハルカは、マヨがあきらめたポリシーを歪めてはいない。届かないマヒルへの思いに涙し、倫理的な正しさよりも自己の愉しみを選ぼうとするマヨを軽蔑し、葛藤する。

多くの人が愛する人ひとりと結ばれたいとはじめは思う。その思いは、大人になる過程で現実を見るたびにゆるぎない目標となったり、反対に生やさしいきれいごととなったり、あるいは双方で揺らいだりする。

ゆーとぴあを目指すひとの根底に共通して存在するのは不安感だ。誰でも「愛する人と結ばれたい」「でも自信がない」「幸せになれるかわからない」という期待や不安で押しつぶされそうになることがある。そんな思いから解放されたくなったとき、心の拠りどころとなるのがゆーとぴあである。

ゆーとぴあの魅力は、天国と比べてその特徴がはっきりしているところだと思う。食べ物、本、服、映画、愛する人…と自分の求めるものが手に入る理想の世界だ。だれかとだれかが結ばれてもだれも傷つかない世界。天国もなんとなく幸せなところだと考えられているが、具体的にどう幸せかはイメージしにくい。愛する人もひとりだけかもしれない。その不安を払拭するゆーとぴあが、テンシが、現実に希望を見出せなくなった人の心にすっと入りこんでいくのだ。

★テンシの叫びは少女たちの心の叫び

物語の中で繰り返し登場する老婆の姿をしたテンシたちの叫びは少女たちの叫びである。こだまする悲鳴は、少女たちの心の悲鳴に聞こえる。醜い皺は、抱えきれない苦悶の痕だ。テンシが出現する直接のきっかけは髪が濡れたり、えっちな気分になったりすることだが、その陰には不安が溢れ出しそうになった繊細な心が見え隠れする。

この物語が私たちに与えるのは恐怖だけではない。希望も与えてくれる。ゆーとぴあで幸せに暮らすことではない。私たちにはゆーとぴあで幸せになるという選択肢もあれば、現実の世界で幸せを探し続ける選択肢もあるということだ。ウララはゆーとぴあに留まらず現実の世界に戻ってきた。一度は現実の世界をあきらめ、ゆーとぴあで暮らすことを決意し、生徒をも連れて行こうとしたマヨも思いとどまった。二人はいま生きている世界で自分の周りに存在する幸せに気付いたのだ。誰かと恋人となり、結ばれることだけが幸せではない。家族を心配すること、生徒を気にかけることも愛であり幸せとなる。

幸せのかたちは人それぞれ異なる。いま自分は幸せだという確信があれば何も気にならないが、不安になったときは他人と自分を比べたり、他人をうらやんだりしてしまう。そんなとき忘れたくないのは、自分たちには幸せを見出す力があるということだ。

★愛の答えはさまざま

「愛する人はひとりだけってだれが決めたの?」

私は、物語の冒頭でこの言葉を聞いたとき、同時に複数の恋人をもち奔放にふる舞うことを肯定しているのかと思った。そうではなく、この問いにはずっと深く、またシンプルな答えがあった。

恋人に向けるものだけが愛ではないこと。愛はさまざまな対象に向けることができるということ。

「こうでなければならない」という考えに縛られると、見えそうな答えも見えなくなってしまう。天使の街は、がんじがらめになりそうな私たちをそっと誘惑して、眠らせて、目覚めさせてくれるのだ。深く刻まれた皺を伸ばして、美しく輝けるように。

小説は作者と読者の共有財産

小説に限らず、マンガ、映画、アニメ、音楽……と、あらゆる作品は、この世に放たれた瞬間から、送り手と受け手の共有財産になります。作者の意図が正確に読み取られようと、あるいは曲解されようと、それもひとつの作品のカタチなのだと思います。

だから、作品を受け取った人がどのようにそれを楽しんだか。作者にとって最大の関心はそこにあります。

『天使の街』は10〜20代の女性が主人公で、しかも一人称で書かれているため、作者としては大きな不安がありました。女性の読者が感情移入できない作品になってはいないか。細かい矛盾や手抜かりはあったとしても、その点だけはクリアしたいと考えていました。

もちろん、作品である以上、受け取り方は人それぞれだし、まして本作品はガールズ・ラブなので、心の底から楽しめる人は限られるでしょう。

それでも、『天使の街』の世界に浸り、喜んでくれる人は存在する。それがわかっただけでも、作者としては満足です。

上記の感想文では、作者の意図をものの見事に読み取ってくれています。その一方で、テンシの叫びは少女たちの叫びであり、醜い容姿は苦悶の現れである、というのはまったく考えていなかったことで、新たな「気づき」も与えてくれました。

私は女性ではないので、女性の気持ちはまったくわかりません。しかし、『天使の街』は女性を主人公にしながら(なおかつガールズ・ラブでありながら)、描いているのは、人が普遍的に持っている心のありようです。だからこそ、読む人によって、いろいろ“深み読み”できる余地があるのでしょう。

今回いただいた感想文を読んで、そんな分析をしてみました。

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