〈敵情視察〉は、セルフ・パブリッシングの人気作・話題作から、美味しいところを頂戴し、自分の作品に役立てようと企むシリーズ。今回は、隙間社による電子書籍の第1弾、伊藤なむあひ氏の『少女幻想譚』を取り上げる。
タイトルの字面から、「少女が幻想的な出来事に遭遇する話」が収められているかと想像していた。そんな内容であれば、自分の小説の参考になる。だが、実際に読んでみると少し違うのであった。
そして──。
なぜ本書が〈隙間社電書〉の第1弾としてリリースされたか。本書の魅力を分析するうちに、その理由もわかってくる。
今回は、隙間社によって施された粋な仕掛けを解き明かしてみよう。
この記事はぎゃふん工房の作品レビューから移植したものです。
4つの短篇をさっくりレビュー
本書には、“幻想譚”が4編収められている。内容をくわしく書いてしまうと、未読の人の楽しみを奪うことになるので、それぞれをさっくり語っていこう。
物語が始まらない「白雪姫前夜」
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』と男の会話から始まる不思議な味わいを持つ話。
この『トランク』の正体は最後まで明かされない──といっても、べつに真相が隠されているわけではない。ただ、読む者が自由に解釈し愉しむ余地がある。
当ブログは、『トランク』に何も入っていないこと──いや、これから何かが入れられること──に着目する。
そして、「白雪姫前夜」というタイトル。白雪姫は〈物語〉であり、その「前夜」だから、まだ〈物語〉は書かれていない、ということではなかろうか。
『トランク』のような何かに、これから〈物語〉が入れられる、というわけだ。
この作品を読み終えても、なぜかまだお話は始まっていない。狐につままれたような、不思議な感覚に襲われる一編だ。
物語が目の前で紡がれる「鏡子ちゃんに、美しい世界」
物語の中にだけ現れる少女・鏡子ちゃんを追う少年の話。
鏡子ちゃんが現れたあとには、〈物語〉が紡がれていく。少女に会いたいという少年の気持ちは、お話の続きを知りたいという読者のそれとイコールだ。
そして──。
日々、〈物語〉を書こうとする自称・小説家にとって、「鏡子ちゃん」は自分の作品の登場人物のようなもの。同時に、〈物語〉を作り出してくれるパートナーでもある(小説を書いている人なら「キャラクターが勝手に動き話しはじめる」という経験があるだろう)。
〈物語〉を読んでいたはずなのに、読者である自分が〈物語〉を作っていた。そんな奇妙な読後感を味わえる。
物語が崩壊・再生する「/いいえ、世界です。」
世界から半濁音が消え、少女が探しまわる話。ここでは、シャンプーはシャンフー、パパはハハとなる。
半濁音があるかないか。ほんのちょっとの違いだが、少女の住む世界はやがて崩壊してしまう。そのあとは、〈無〉ではなく新しい世界が作られていく。
本作も、前の2編と同様、〈物語〉について描いたものと解釈できる。〈物語〉の破壊と再生を表現しているわけだ。
われわれの“知らない”物語「おはなしは夜にだけ」
街のいたるところで『かれら』が現れる話。
『かれら』とは何なのか。やはりその詳細が語られることはない。少なくとも人ではないが、モンスターの類というわけでもなさそうだ。
『かれら』とは、われわれ読者の知らないもの、まだ見つけていないもの、ではないか。あえて他の3編との関連性を見出すなら、われわれがまだ知らないものとは、これも〈物語〉ということになりそうだ。つまり、われわれはまだ〈物語〉を発見していないのだ。
この短編集の魅力とは?
セルフ・パブリッシングならでは自由奔放さ
本書に収められた短編は、既存の小説の枠には当てはまらないものばかりだ。「こう書かなければならない」という既成概念から解放された筆致が清々しい。
たとえば、「/いいえ、世界です。」では、ただの言葉遊びと見せかけて、“文字表現”の根源的なおかしみを電子書籍ならではの工夫で表現している(この部分のHTMLファイルがどうなっているかも気になる)。
幻想に惑うのは「少女」ではなく読者
本書で展開するのは、最初に想像したような「少女が幻想的な出来事に遭遇する話」ではなく、「読者が少女に惑う話」であった。この「少女」も、人間の女の子というより、〈物語〉の、いや〈世界〉の創造主のような存在だ。
物語を作る者/読む者の琴線に触れる
4つの短編は、先に述べたように、それぞれ〈物語〉の創造・破壊・再生を表現している。
本来、読書とは、すでに作られた〈物語〉を読むことだ。しかし、本書は読者の目の前で〈物語〉が作られ、壊され、また作りなおされていく。そんな臨場感が味わえるのだ。
本書が〈隙間社電書〉の第1弾だった理由
ここで、最初に設定した問題にもどろう。
なぜ本書が〈隙間社電書〉の第1弾としてリリースされたか。
それは、本書が「〈物語〉とは何か?」という根源的な問いかけを、読む者に投げかけるものだからだ。
セルフ・パブリッシングの本を作る者には〈物語〉を創造する喜び、セルフ・パブリッシングの本を読む者には〈物語〉の世界に浸る楽しさ。本書はその基本を伝えようとしているのではないか。
つまり、本書そのものが、これから次々とリリースされるであろう〈隙間社電書〉シリーズの「まえがき」とか「プロローグ」の役割を果たしているのではないか。本書が〈隙間社電書〉の第1弾だった理由はそこにあると想像する。
これこそが、隙間社が施した「粋な仕掛け」というわけだ。
ところで、自分の小説の参考にしようと読みはじめた短編集だったが、自分にはこういうものは書けないと思う(書きたいけれど)。
(文中、一部敬称略)
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